若手演出家コンクール2024・公開審査会【審査コメント・レポート】

2025年3月2日(日)公開審査会を行った。担当した審査員は下記9名。

鵜山仁(文学座)

加藤ちか(舞台美術家)

鐘下辰男(演劇企画集団THE・ガジラ)

小林七緒(流山児★事務所)

シライケイタ(日本演出者協会理事長・劇団温泉ドラゴン)

弦巻啓太(弦巻楽団)

日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)

山口宏子(朝日新聞記者)

流山児祥(流山児★事務所)

司会進行は実行委員長の大西一郎、採点進行は実行委員の西沢栄治、三上陽永が行った。

まず、各作品について審査員が討論形式で審査コメントを述べていった。各候補者と審査員のやりとりも交えながら、全作品について熱のこもった議論が行われた。

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申大樹(東京)

深海洋燈『野ばら』

【日澤雄介】面白く拝見いたしました。コンクールの性質上、美術をどこまで攻めていけるかというところがありますが、申さんはかなり仕込んでいらっしゃって、インパクトがありました。サービス精神といいますか、何とかお客様に楽しんでもらおうとする想いがひしひしと伝わってくる舞台でした。『野ばら』を原作として膨らませ、戦争に対するご自身の意見を当て込んでいたなと思いました。

全体的にまとまっていましたが、やや明かりの攻め方が効果的ではなかったように思います。やっている効果がどのような影響を与えるのか、もうひとつ検討が必要だったのかなと思います。例えば、裸電球が落ちてくるところはすごくインパクトのある演出ですが、あのシーンで何を観せたいのかなと考えた時に、あの後の先生のセリフがとても良くて、すごく迫るものがあるんですよね。ああいう強いキャラクターの人が、あそこで自分の意見を主張することで失脚する、最後のセリフです。裸電球を落とすことで作り出す影とセリフと表情と、っていうところの一番いいタイミングはあそこじゃないんじゃないかなと思いました。そういう手法はもちろん素晴らしいんですけど、それを使ってお客さんへ何を伝えていくのか。今の時代とどうリンクさせるのか。

あの蜂の格好をして素敵な衣裳で踊るシーンもすごく良いんだけど、もっと生き生きと命の爆発というか熱みたいなものをみせられると、もっとたぎるような劇空間ができたのかなと思いました。

【小林七緒】セットをがっつり組んだな、とワクワクしました。2時間で仕込むのは勇気がいるし、ましてや生演奏ゾーンを作り、音響さんも大変ですがワイヤレスもつけて、それをやりきったのは素晴らしいと思いました。物語世界の人が額縁から出てくるとか、向こう側の部屋に入ることで物語が始まるとか、最初のイメージ付けが分かりやすかったので、スタートの掴みも素晴らしかったです。

ただ、足し算で作ってるので、例えば「結局何食べてたんだろう?」ということなどが見失いがちになりました。電球がブランと下がった時に、一瞬そっちに目線がいったり。先生にフォーカスしたいのに・・そこじゃないんだけど・・ということが、何度かありました。役者さんも演出意図を汲んでみんなすごく頑張ってるし、テントでやるかの如くやっているんですけれど、逆にみんなで説明しようとしてくれた分、老兵士と青年兵士が将棋をやっているところが薄まっちゃったなという印象があって。盛るだけじゃないやり方ができればいいなと思いました。

原作は、最前線で二人の交流があって、最後に静かな隊列がやってくるというミニマムな表現が、「戦争だめでしょ」とものすごい痛みとして刺さってくるんだけど、今回は盛った分、いっぱい説明されすぎちゃったかなと。「こっちにも考える余地を頂戴」という感触が残ったなという気がしました。そこの塩梅を、もう少し引きで観て、取捨選択ができてくるといいなと思いました。

【加藤ちか】美術については観た通り、あれだけの努力と、芸術として舞台に上がっているものとか、失われていくということも含めて、そのコンセプトでかなり創りきられている感じでした。

『野ばら』だし主題は分かるんだけれども、ものを作って伝える時に、てんこ盛りで、言葉数が多くなり過ぎている。言いたいことを全部詰め込むというのも個性だということがすごく分かるし、お客様にとっては払ったお金以上のものを受け取れるし、芸術性とか楽しさも全部観客はいただけるんだけれど、伝えるべきことを洗練させていく演出家としての「削ぎ落とし方」も観たかったです。演出家としての厳しい目でそれを作りきらないといけない。歌があり、踊りがあり、美術があり、短編のストーリーの膨らませ方があり。だけど、これだけのたくさんの言葉とたくさんのことを表現して、まだ伝えきれてないんじゃないかと思う勿体なさがありました。

2次審査でも素晴らしい創造力と芸術力と熱量を観させていただいたからこそ、演劇界をこれから牽引してもらうために、人に伝えるテーマや大事なものの残し方を、もっと引いて客観的に観ることが課題だと思います。

【山口宏子】いろんなアイデアを全部詰め込んだ、意欲的な舞台でした。ただ、結果として、多くのものを盛ったことで、かえって『野ばら』という作品の良さが見えにくくなってしまっていると感じました。

演劇というのは劇場で観客が観ているわけですが、その向こう側には社会があります。「社会とどう繋がるのか」という点をこのコンクールが大事にしたいということで作り手ではない私が審査員に呼ばれていると思うので、以下のことは、その視点から申し上げます。

劇中で歌を歌いますよね。『死んだ男の残したものは』は谷川俊太郎さんの詩です。当日会場でその詩を印刷したものを配布したのに、作者の名前が書かれていない。『What a wonderful world』もそうです。他の方が作ったものを採り入れた時は、そのことを観客に明示しなくてはいけない。それが先行のアーティストに対する敬意でもあります。例えば、劇団チョコレートケーキは歴史を題材にした演劇を多く作っていますが、当日配布のリーフレットには主な参考文献がA4 1ページ分くらい、びっしり書かれています。クリエイションが先達の成果の上に立っている場合、そのことはきちんと示さなくてはなりません。

美術や衣裳、俳優さんの魅力など、大変華のある劇団だと思います。だからこそ、そういうところをきちんとやって、安定感を増してほしい。プロの表現者としての責任だと思います。

【鵜山仁】スタッフ・キャスト含めて、いろんなピースを、楽曲も照明も仕掛けも、できるだけ良いクオリティでたくさん集めてくるのは、演出家の仕事として大事な部分だと思うのですが、今日僕は勝手に、その点をあんまり気にしない役割だと決めてきているんです。

具体的に僕が一番面白かったのは、2人の兵士が知らない間に仲良くなりましたといった時にふっと表情が和むんですけど、あの瞬間なんです。それで、そのことが朗読しているお嬢さん2人にどういう影響を及ぼしたか、及ぼした影響がフィートバックされて、2人が言葉を交わして会話するようになった。そういうリンクを大事にするのが演出の仕事だという考え方もあって。今回僕は、良くも悪くもそこに注目してみようかなと、4本観てそういう判断をしました。僕にとっては、どうやってあの2人が、自分たちが発する言葉に辿り着いたかというプロセスは、芝居作りの入り口として、すごく現場が楽しめるところだなと思います。

ピースの集積のクオリティの高さは評価「高」なんだけど、僕が今言っているようなエリアの演出作業については、あんまり評価できなかったなというのが正直な印象です。

【流山児祥】観ていて、終始ワクワクしてました。僕たちは演劇という「集団の芸術」を作ってるんだということを、絶対忘れてはいけないと思う。空間とか時間とか身体が一緒に溶け合った状態っていうのが、永遠の「今」ということだと思うんですよ。それを観せてくれた。僕がすごく面白かったのは、最初のアジテーション。そもそも、アングラや不条理演劇は「抵抗の芸術」だし、そういうものを確実に描いていた。

ただ、余りにも「情報」が多すぎて、人間(役者)の存在が逆に消えていく。俺はもっとやれ、と思うんだけど。常識的な演劇人ってヤツは頭硬いからなかなか評価されないかも?少なくていい、申さんは、数パーセントの内の1人になるんだよ。今までなかったタイプの演出家が生まれてきたなと本当にワクワクした。

でも、やっぱり「どこかで観たことのある、所謂アングラエンタメ演出」のデジャブ(既視)感がものすごくあった。

作り込みすぎてて、それ全部「演出」じゃん、って。本来アングラは演出からはみ出すような人間たちと一緒に協働作業をやってた。だから、役者も美術も照明も音響も全て一緒じゃない。演出の仕事って、「埋めるコト」ではなく、いわゆる「スキマ」を創るコトだと思うが、申くんどうだろう。

谷川俊太郎を引用するんだったら、作品全体が『死んだ男の残したものは』にもう一回盛り込むくらいの決意を持たないと。『海角七号』という台湾映画をぜひ観てほしいんですけど、戦争を描いていて、主題が『野ばら』なんですよ。野ばらの花が落っこちていくの面白いと思った、ああいうのが演出なんだよ。人間存在よりも、モノとコトバと音楽。長すぎる、58分はいらない。演劇の古層をこれからどんどん勉強して、いろんなものをぶち込めばいいじゃん、誰が何と言おうと。

とにかく僕は、演劇は集団で作る芸術=芸能だと、久しぶりに観てて面白かったですね。20数人が仕込んで、20数人がバラして、そういう演劇は「絶対」にやるべき。そういうものをきちんと「評価するべき」だと僕は思います。

【鐘下辰男】楽しませていただきました。演出の仕事のひとつとして「空間づくり」があると思うんですけど、普段のテントとこの劇場ではそもそもの劇場空間が大きく違うと思うんです。そこで気になったのは、テント公演でやられてた表現方法をそのまま小劇場へ持ってきたのか、それとも小劇場なりに演出を変更したのかという点です。みなさん既視感みたいなことを言ってましたが、私もいわゆる一般的な小劇場演劇の演出に思えました。それがいけないというわけではもちろんないですが、これテントで観たらもっと面白いだろうなと思ってしまいました。なので、舞台上の表現方法云々ということより、どうしても作品の内容に視点がいってしまった。作品内容はいわゆる反戦もので、100 年前に書かれた児童文学が原作なんですが、今の世界情勢などを見ていると、まさに今必要な芝居なんだなという感覚で観ることは出来ました。

ただ、頭硬いんだよと怒られるかもしれませんが、僕が気になったのは、なんで戦争が悪いんだという問いかけに対して、一部の悪辣な資本家が自身の利益のためにやったとか、民衆は犠牲者であったなどの理由で、戦争は良くないとするロジックというかですね。世界大戦後、特に先進国では、人間は自由が重要で社会はもっとリベラルにならないといけない、とやって来たはずなのに、現代はアメリカやヨーロッパをはじめリベラル勢力がそこらじゅうで敗退していってる。ちょっと世界の常識が違って来ているというか……。こうした状況下で、「人は優しくなりましょう、隣同士で友達になりましょう」というだけでは、説得力が・・・と感じました。その点原本の『野ばら』は、言葉では明確なメッセ

ージは出してないんですよね。だから作品として豊かな感じがするんですが、今回はメッセージを明確に言葉で可視化させてしまったことで、反対に作品が小さくなっている印象を受けてしまいました。

あと、原作では国境に誰が植えたか分からない一株の野ばらがあって、戦争が終わったらそれが枯れたというエピソードが描かれていますが、この野ばらって何だ?とか。原本ではあまり書かれてないじゃないですか。たとえば舞台化するなら、この「野ばら」をもっと膨らませたら良いのではとも思いました。

【シライケイタ】僕はめっちゃ面白かったんですよ。すごく興奮したし、すごく良かったと思います。詰め込みすぎとは思わなかった。「僕自身、やりたいこと全部やりゃいいじゃんと思うタイプの作り手なのかな、引き算じゃなくて足し算で作るのかな」と思うくらい、共感したし好感も持てた。楽器演奏、即興も素晴らしかったし、歌も素晴らしかったし、演技も素晴らしかったし、本当にレベルの高いものをきちんと融合させていて、満足感がありました。

既視感と言うとネガティブな印象になるけど、言い方を変えて「王道な演劇の作り方」と言えば全然見え方が変わるんです。新しけりゃ良いのかというと、王道・ドストライクの160キロのストレート投げ込む演劇があったっていいじゃないか。まあ僕はそれをやってここで最優秀賞取れなかったんだけど。まあでもそれは僕の信念として、今でもそうやってます。そういう意味では気持ちよかった。あと、劇団力というものもすごく感じました。

ひとつ、僕がもったいないと思ったのは、やっぱりこれは『野ばら』であって、武満徹の音楽であって、谷川俊太郎の詩であって。それは全て優れたものだからそこに対して僕らも動くんだけど、じゃあその既成のものを使って申くんは何を言いたかったんだろう、この劇団は何をやりたかったんだ、というところまで手が広がればもっと良かったんじゃないかと正直思いました。でも僕はすごい良かった。おつかれさまでした。

【弦巻啓太】とても迫力があって、飲み込まれた感じがして面白かったです。個人的には最初に舞台上でアジテーションする時に「アンディ・パートリッジ」という単語が聞こえてきて、もうそれだけで「よし、許した」となりました。最初の絵作りからすごくて、しっかり構成されていて。さまざまな要素を集めて自分の美学でまとめ、あれだけの集団を演技性も含めて自分のイメージする方向にまとめる統率力や演出力をすごく感じました。けれど、展開のところで起きる数々のアクションが、同じパンチが続いてる気がしました。そして1回パンチが打たれるとそこまでの積み重ねがリセットされちゃう。またゼロからスタート、という感じになっていて、それがもったいなかったです。僕が一番好きなのは将棋盤を置いた後、明るい曲調でサックスが入ってくるところ。あの多幸感にすごく打たれて、あんまりこういう場で笑ったり泣いたりしないタイプなんですけど、ほろりと涙をこぼすくらいぐっと掴まれたんです。けれど、そこで一度終わっちゃう感じがあるんです。広がらない、深まらない。

例えば将棋を指す時に、駒が盤上の国境を越えたらどうなるんだろう?と。将棋盤を置いた後、そこからの逡巡とかそこからのドラマが観たいなって思ったんです。流れちゃったのがもったいない。『野ばら』という原作をより伝えるために、いろんな要素を足さなくても背景を掘り下げてく方向で出来たんじゃないのかなって。

最後、孫の存在に気持ちを持ってかれたらいいのか、妹の方に持ってかれたらいいのか、それともおじいちゃんとお兄ちゃんの関係性とシンクロする何かが繋がっているのかとか、分からないな〜と思いながら少し引いた感じになっちゃいました。だから、ぐわーっと押し寄せるのはすごく気持ちいいんですけど、それを引き込んだ上で、もっとすり潰されたいと思いました。


武田宜裕(広島)

INAGO-DX『着かず離れず』

【日澤雄介】面白いと言っていいものか微妙なんですけど、すごく引き込まれた作品でした。椅子が3つと幕が張ってあるだけのセットで、基本的には照明でシーンを進めていくようなかなり少ない手数の中で、オープニングに離陸して着陸する旅客機を身体で表現して、「ここが空港で何機も飛行機が飛びたっていくんだろうな」という象徴的なところから始まって。家族や夫婦の確執のようなものを軸に、航空機事故の話を絡めつつ進んでいく。身体の使い方、照明の使い方、あとは空気の作り方っていうのは、とてもお上手だなと思って観ておりましたし、好きな部類の作品でした。俳優さんの間の取り方とか息の合わせ方も、かなり稽古されたんじゃないかなと思いました。複数役やってらっしゃる方の役の割り方にも関連性を求めて作っていたので、非常に好感が持てました。

また、照明が抜群に好きでした。たぶん灯体数は多くないんですけど、タイミング、ラストの絵作りからのブラックアウトのさせ方、フェードアウトの時間、なかなかしびれるものを感じました。

ただ、これは多分武田さんがやれることだろうな、ご自身が一番得意なことなんだろうなという「手慣れた感」が少し気になるというか。これだけのことができるっていうのはとても素晴らしいことだと思うのですが、逆に、この表現じゃない手法の武田さんって想像ができないんですよね。削ぎ落とす演出が出来るのは十分にわかりましたので、もし機会があったら、手数の多いものも観てみたいなと思いました。総じてバランス感覚がとても良いなと思ったので、とても楽しく拝見しました。

【弦巻啓太】自分も普段北海道で活動していて、10年くらい前ここに参加した時もいろんな制約があったので、すごく練ってきたんだろうなという感じがしました。役者のみなさんとても上手でしっかりコミニュケーションが取れてて、生きた交歓がなされているなと思いました。でも、最初に飛行機の中で「席違いますよね」となり、「リクライニング倒していいですか」って声かかって喋り出すという流れがありましたが、それって相当イレギュラーなことだと思うんですよね。相当不条理というか、なかなか起こり得ない感じがして、それがありなのだと最初に飲み込んでしまうと、それ以降に起きるちょっとした不条理的展開が大したことに思えなくなるというか。

紙コップを、一人は持ってないけど武田さんは持っている。あれは狙いですか?

【武田宜裕】狙いです。

【弦巻啓太】最後のトリックとして違う飛行機であることを表したいのも分からなくはないんですけど、それだとしたら、違う紙コップにした方がいいんじゃないかなと思って。「ない」のに「ある」ということにしている状況が、変な話、一生懸命演技している2人が一番面白く観えてしまって、その無理を楽しむものなのかなと思ったら、割とベーシックにお話をちゃんと伝えていくことになっていて。少し、リアリティラインをどこに持って楽しめばいいのかなっていう混乱が起きました。

あとアフタートークの時に、いろんな立場の人に見えるように人の役割が変わっていったり、立場が変わっていったりっておっしゃっていたんですけれど、僕はそれがちょっと早いと思ったんです。こっちがその想像にたどり着く前に、言葉でこうですよって表していってる感じがして、もうちょっと待っていいんじゃないかと。

【日澤雄介】僕は気持ちよかったけどな〜。あのスピード感で変えられる俳優の演技体の変化が、僕はすごいと思ったんです。それこそ俳優が追いつかないと成立しないんだけど、特にお母さん役とスチュワーデスさん役の方の変わり方は、僕は観ていて「よくぞ演出のやりたいことを体現したな」と思いました。

【弦巻啓太】変わってくことで段々違う人たちになっていって、一生懸命こっちが追い付かなきゃいけないという風にするんだったら、それはそれで良いんですよね。こっちに想像させるのかなと思ったら、もしかしたらのところで、パッて変わっちゃうところがもどかしい。

【鵜山仁】(他の審査員へ質問)「違う時間が交錯した」というのは感じられた?僕は全然わかんなくて。台本を読むと結構わかりやすくて、なぜ自分が分かりにくかったのかもよくわかった。

飛行機の時間と、フラッシュバックの時間との、表情の変化を観たいというジジイなんだよ俺は。それが観えれば、すごく分かりやすい芝居だったと思うんだけど。

【小林七緒】私は、気持ちよかったです。じゅうぶん追いついていけるし、むしろもうちょっと待たれたらやだなっていう。しかも、のっかる人がちゃんと切り替えて、置いてくべき人は置いてってる感じをしっかり作ってあるなっていうのが小気味良くて。紙コップもそうだし、紙切れ1枚とっても違和感からスタートしていくのに、全て回収していくじゃないですか。すごく気持ちよくてワクワクしました。

【鵜山仁】大阪行きと群馬行きの飛行機の速度感の違いみたいなことは、感じられました?目的地が違うんだからさ。重力が違うはずだけど。

【日澤雄介】正直途中までは飛行機が交錯しているとか、これが大阪なのか群馬なのかとかキャッチできないことはたくさんあったけど、僕は違和感まではいかずに、ちょっとした引っ掛かりで留められたから、そっちに引っ張られることはなかったですね。

【小林七緒】椅子が3つ、背もたれがないタイプ。体を見せようという意図が分かりました。私も明かりが本当に好きで、「あ、これ一個で見えるぎりぎり探ってる!」みたいな。センスいいなと思いました。

役者さんが、体と椅子だけで飛行機に見せ、歯医者も見せ、っていうところを信じてやってるところがすごく好きでした。「それで見せられる」という腹の括り方を、出演者全員が共有して。だから空気もちゃんと合わせて、あのテンポで切り替わってくのに誰も取りこぼされずにちゃんと世界を回していけるっていう。それも、何十分か経った時に回収する世界もちゃんと作れるというのは、それで伝えられることをすごく信じてやっているんだなと思い、私は評価が高かったです。

【シライケイタ】僕はすごく心地よくて、不思議なことが起きてるんだっていうことが分かって。その不思議なことがどういう風に演劇として回収されていくのかなということを、ワクワクしながら観ていました。異なる時間や空間を交錯させたり、演劇でしか出来ない事がふんだんに盛り込まれていて、それらがとても心地よいスピード感で入ってくるから、ものすごく面白かったんです。何が本当で何が嘘なのか、ということが分からないまま。スチュワーデスさんの演技の切り替えも面白かったし、紙がいろいろ変わっていくところも、すごくクレバーな作り手さんなんだな、と思いました。

最後に「群馬で事故・・・あ、これ御巣鷹なのか」と思った時に、「彼が紙コップ持ってなかったのはこういうことなのか」とバーンって繋がるんだけど、御巣鷹の事故がこの作品の内容に効果的に使われていたか、となると。そこだけが引っかかりました。御巣鷹の事故をあそこに持ってきたのはなぜなのか。彼らの叫びを描きたかったのか。でもどっちかというとそうじゃない方の男の人の物語だし、事故がこの作品の中でどういう出来事として起きたのかっていうことが、キャッチしきれなかったという感じがしました。

【加藤ちか】経験上、作品の意図していることがすぐ分かりました。見えてることが本当なのか?真実は何か?という、演劇じゃないと出来ないことに向かわれている。でもどうしてもやっぱり、もっとできることの範囲を求めたくなる。それは私の年の功もあるし、たまたま私が飛行機を扱った作品を創ったことがあったということもあるので。

私は広島で二次審査も観させていただきました。今回決して御巣鷹の事故に限定しているわけではなくて、それをお客さんに観せる手法として、二次審査の作品の個性と同じものは出ていたと思いました。

手法も面白かったし、いろんなことをやっていただけたり、役者さんの長けているところも感じられて惹き込まれたというのは事実なんだけれども、作品の許容の大きさからすると、もっと育てたら良い作品になるんじゃないかと感じました。

これは作家の方を褒めていると思っていただいていいのですが、第1稿目から稿を重ねてブラッシュアップをされていって、ご本人としては何の悔いもない作品に仕上がってるんだろうけれど、逆に削がないものも観たかったなと。

【鐘下辰男】最初の方で「あ、これはあの事故か」と思って、その話でいかれるとちょっときついかな……、とは思ったんですが、けっしてそうはならず、事故を背景とした別のテーマというか訴えたいことが一貫としてあったので、楽しく観せていただきました。演劇的表現という点でいうと、僕は4 作品の中で一番豊かさを感じたかな。同一人物がいろんな役をやったり時間軸をズラす手法は、映像でもできる。でも瞬間瞬間、観客の目前で生身の俳優がその身体によって行為するというのは、演劇しかできない。そうした演劇表現の有効性を非常に楽しませてもらいました。だから余計な批評眼も必要なく単純に目の前で起こることに、一観客として身を委ねられました。こういう楽しみがないと、作品の内容が気になったりとかして、「嫌な見方してんな俺」と思ってしまうんだけど、そういうことも全然なく楽しませてもらった気がします。

あと、俳優さんの演技も、非常に好感が持てました。形象表現に流れるわけでもなく、かといってつまらないナチュラルリズムに流れるわけでもなく、良い意味での演劇の演技。たとえば最後の方で墜落死する俳優さんの額にだんだんと汗が滲んでいく。ああいうのを観るとちょっと僕は興奮しちゃう。個人的に本当に「良いもの観たな」って思いました。

一つ難を言えば、笑いに関して。無理に入れなくていいんじゃないですか。ましてや「ここ笑うとこだよ」とあえて演技や演出で提示しなくても、ちゃんと笑える芝居だったと思います。

【山口宏子】大変面白く拝見しました。舞台の上に居る人間が信じられる。登場人物は、状況に対して真面目に反応している。しかしそれがどんどんずれていき不思議な世界にいく。今起こっていることの「本当さ」と、ちょっと引いた時に観えてくる違う次元の出来事を、椅子があるだけという最小限の空間で表現しているところがとても面白く、俳優さんも上手いと思いました。今自分が何をしているのか、そのことがどう機能しているのかということを分かった上で、でもそれを「分かってますよ」と説明しないで演じているところが気持ちが良いし、それがある種の知的な企みになっているのが良いと思いました。

前提として、描いていることが日航機事故ということは、観客に意識させたいですか?させたくないですか?

【武⽥宜裕】僕は群⾺出⾝で、⼩学生の頃に事故がありました。初稿の時は⽇航機事故のことをかなり隠していました。2稿⽬・3稿⽬の時はかなり顔を出させました。分かる⼈にはちゃんと分かるという前提で作り、分からなくても一番伝えたい部分が伝わるようにとせめぎ合った中で、最終的に今回の形になりました。

【山口宏子】偶然ですが私も群馬出身で、しかも新聞記者になりたての頃に起きた大事故で、個人的な思いがあって、だからこそかもしれないのですが、「こういう扱い方でいいのか?」と引っかかるところがないとは言えませんでした。

あの事故を扱った重要な作品が二つあります。ひとつは劇団離風霊船の『赤い鳥逃げた…』(1986年初演)。これは、家族が普通に過ごしていた茶の間に、最後いきなり瓦礫がなだれこんできて、事故現場になる。日常の破壊を可視化した名作です。もうひとつは2022年のNODA・MAP『フェイクスピア』。ボイスレコーダーに残された事故機の機長の言葉をそのまま舞台にのせた。これは非常に勇気がいる作劇ですが、そのことによって、「本当の言葉」が観客の心を強く動かしました。

今回の作品で描いた、空港がなくてどこにも降りられないという表現は、その2作品に匹敵する切実さ、強さを持っていただろうか?こういう題題と向き合うということは、歴史的な先行作品と対峙することでもあるということの意識が、私には、残念ながらもう一つしっかりと感じられませんでした。

【流山児祥】俳優論として観ていました。俳優というものは断片を生きているんです。作家が最初に全体像を出したかどうかは分からないけど、断片が繋がってひとつの絵を作るんですよ。断片ってことは役者の仕事じゃないですか。つまり、役者の仕事って何だろう、と思って観ていたんです。

メッセージが何か?というのはクソだと思ってる。歴史は「ある」ものではなく、「なる」ものだと僕は思ってるんです。演劇もあるものじゃなくてなるものだと。椅子が3つ、色が違いますよね。俳優がそこの場に居て何をお客さんに観せたいのか?ていうのを観てて、30分くらいから、めちゃくちゃ面白くなって、全くメモとかとれなくて夢中で観たのね。久しぶりですよ、こんなに興奮したのは。「役者ってこういう生き物だよな」っていうのを観させてもらったんです。有難う。

ただね、「息子の時間」をどこかでやれないかなって。四すくみにして欲しいのに、まだ三すくみなんだよな。それが1番簡単なんだよね。三角形が1番楽だから。四角だとそれがでこぼこになったり、台形になったりする。どこかで安定しない、もっとアナーキーなやり方は無いかなと思いながら観てました。ま、ダントツの演出力だと感じ入りました。

【鵜山仁】3人の役者さんはじめ、照明効果もそうだけど、ピースを集めてくるという意味ではクオリティが高いなと思いました。それと、「ピースを集めてくることが演出家の仕事じゃない」ということじゃなくて、今日僕はそこのところで判断するのを放棄する、ということなので、誤解のないようにお願いします。


平田純哉(東京)

不条理コントユニットMELT『赤砂』

【鵜山仁】これはアフタートークでも言いましたが、火星が3分の1の重力だと、「うんこ」の事件性は3倍だろう、と。それから、夫婦喧嘩は、すごい濃厚になるか希薄になるかどちらかだと。火星から地球を呼ぶ時の声は、相当聞いたことないような声だしてほしいな、と思いました。シチュエーションを火星に持ってくってことはそういうことなんじゃないかなと。演劇の持ってるライブ感とか役者の身体性というものがスパークして。

だから、10世代くらい遡ると火星に行ったことある人がいるんじゃないか?みたいな感じで。細胞の中にそういう記憶が絶対あるんだ、ということに依拠しないと、芝居なんかやってられないと思うので、そこを開発してほしいという感じがすごくありますね。

そういう意味では物足りなかったんです。火星にシチュエーション持ってくんだったら、そこまでいってほしかった。違う表情が観たい、違う声が聞きたい、それだけのことなんですよね。それを触発してくれるのは相手役との関係性で、これは4作品通じて、そういうところが朧げなんじゃないかなと思いました。

【流山児祥】とてもおしゃれな感じなんだけど、古ーく感じた。『2001年宇宙の旅』みたい。

火星っていったらすぐに僕なんか出てくるのはイーロン・マスク。「アイアムマネー」っていう連中をうんこの中に突っ込む話だと思ってた。糞溜めの中に全部入れちゃうくらいの。皆さんちゃんとお上品で礼儀正しい人しか出てこない。うんこの片付けをやっている人とか出てこないかなとずっと待ってたんですけど、出てこない。においも何にも感じないんです。安全地帯の芝居にしか観えなかった。

不条理演劇って標榜するならば、ベケットにしたって、別役実にしたって、唐十郎にしたって、そういう先人たちがどうやったか。ヒロシマに原爆が落ちたことでベケットの『ゴドーを待ちながら』は産まれたたわけだから、そこの問題と核兵器の問題とかがリンクするのかなって。どことも抵触しないで、ファッションショーみたいな演劇が繋がっていくのが、どうしても僕には解せなくて・・・ま、古いのかな?

イーロンみたいな社長が出てくるじゃないですか。あれだって不倫だ云々って、すごく安易だなという風にしか観れなかった。もうちょっと悪意みたいなものを持ってる登場人物と、悪意を持ってる演出じゃないと、世界をどうやって見てるんだろこの人達は?となる。議論する場所だと思うんだよ、演劇って。もうちょっといろんな人を出しなさいよって。

不条理演劇とこれからも標榜するのだったら、例えば別役実さんや太田省吾さんの戯曲を一緒に読んだりして、平田さんと喋りたいですね、不条理の根源って、演劇って何のためにあるのかっていうのを一緒に語り合いたいと思った芝居でした。

【山口宏子】先ほど、私は客席の向こう側の「社会」から演劇を観ている立場の者だということを、申し上げました。作り手には、「自分の演劇はこうありたい」という核のある人が多いと思いますが、私は来た球を打つタイプ。発信されたことを、まずはちゃんと受け止めようというスタンスでいます。そういう立場からすると、この作品はすごく良かったと思います。

色々な定義があるでしょうが、演出の役割の大事なことは、何をどう観せるのか、観客にどういう時間をすごさせるのか。そういうことが、隅々まで計算されていると感じました。しかも仕込み2時間という制約の中で、客席を対面にして、中通路のランウェイを造って空間を変えた。客席が対面しているということは、観客には舞台の片側しか見えないってことですよね。こちらからはあちらが見えないという空間。だから、登場人物達の表の顔と裏の顔が空間でも表現される。とても知的な操作であるし、置いてあるスタンドライトの効果の計算も含めて、プロの仕事だなと感心しました。

しかも、話はとてもくだらない。はるばる火星まで行き、しょうもない愛憎を展開している。それをカッコよく観せるという不条理さも、いいですよねえ。映像の作り込みも含めて、表現の質が高い。とても良い舞台だと思いました。

【鐘下辰男】オープニングにある種のセンスが感じられ、観る者としては「おっ」と期待があるわけです。なんだけど本編に入ると特に演技面に関しては非常にオーソドックスで、古典的な作品になってしまった感じがました。オーソドックスが悪いわけじゃないですが、オープニングで期待しただけに、その辺が少し肩透かしくっちゃった感じ。

あとは、笑いに来ているお客さんにとっては、ここ笑うところだよ、と分かりやすく提示され、非常に親切なんだけど、これは俺の場合だけど、それをされたらされるほど笑えなくなる。もっときっちりリアリズムでやった方が爆笑できるんじゃないかな、と思いました。

作品内容は、いい意味でくだらない。だからもっと刈り込んでショートにまとめた方が、そのくだらなさを超えて、もっと豊かなものになると感じました。たとえば夫婦のシーンで、学生に手を出したとかで揉めるところとか。台詞的には3つか4つの掛け合いで、もっとコンパクトにまとめると良いんじゃないかなと。

あと、これ演劇じゃなくてもよくない?という気がしました。この作品が演劇じゃない、というわけではないんです。ただみなさんは演劇以外の力も十分持っているんだろうから、たとえばショートの映像作品にした方が面白くないかなと。10分15分にしろとは言わないけど、そうした表現方法の方が逆に豊かなものになったんじゃないかと。それでも演劇に拘りたいということであれば、たとえばここにいる審査員たちは、それぞれ「演劇の有効性とは?」なんていうことを長い間それぞれ問い続け、それぞれの演劇表現を持っている。平田くんも平田くんなりの、「これは演劇にしかできないんだよ」というものをこれからどんどん追求してもらって、新たな演劇表現、なんて発展していくと良いのかなと思いました。

【加藤ちか】観客が劇場に入った瞬間にざわつくぐらい空間の使い方やセンスが抜群に良くて、それをどのように使い切るのかというところを観させていただきました。

映像もあれだけ駆使していて、丁寧な舞台作りをされているけれども、ぶっちゃけ最初に劇場に入った時の衝撃から、舞台の後半に向かって作品が上がっていかなかった。もったいなかったのは、今回褒めちぎりたいくらいみんな優秀な才能のある人たちなんですけど、演出家も役者さんとしても舞台にお立ちになられているので、あとひとつ演出家としての詰めの甘さと、客観性が足りないように思いました。創り上げたものからそれを上げていくということがどういうことなのかとか、残すことがどういうことなのかとか。

コントの方が面白かったんじゃないかというのは、ネタを観ても、芝居に対するリアリティの作り方にしても、思ってしまう。

舞台美術家いらずって伝えたんです。こんなに演出家が空間を造れて、デザイン出来ているだけに、ご本人がどういう風に突っ走るかっていうことの期待値が上がって、「そこまで(もっと)やってよ」と。今回全員のレベルが高かっただけに、演出家としてやれるところまでもっと貪欲に追求してもらいたいというのが感想です。

【シライケイタ】これまで、全部先輩が喋ってるんですよ。それを僕が否定するわけではないんですけど、でも、マジで聞かなくていいと思う。いつの時代も、新しいものとか新しいエネルギーとか価値観というのは、若い世代から生まれてくる。だからそのことだけを信じて、自分たちのやってることをやればいいと思います。俺もまだ若手と言われていた頃、すごいくらってきたから。本当に腹立ってたけど、でもそういうのも含めて糧になるだろうし、それらの言葉が僕にとって無い方が良かったかというと、そうじゃない。でも、一方では聞きながら、一方では聞かないっていう風にしていくしかない。自分たちで信じるものを作るしかない。

という意味で、「6人のクリエイター集団です」と自己紹介された時、もう敵わないと思った。俺は「演劇人です、演出家です」って自己紹介しちゃうし。「クリエイター集団です、不条理コントやってます」、その集団に対して僕は批評していくことは出来ないです。

僕、ここの台本を買ったんです。上演されたものだけだと皆さんのやりたいことがキャッチしきれなくて、文字で読みたいなと思い。全部書いてあるんだと気づいて、すごいなと思ったし、ものすごくセンスがいい。大きな視点と小さな視点をくだらない会話で繋ぐということが、とても上手くいっているし、面白かったです。

もう少しそこに、人間がやるんだから、人間がここで生きてるんだから、ということが物足りないと、先輩たちが言ってることを僕も思うんだけど、でもそれすら普遍的な価値観かどうか分からないですよ。だから、皆さんは皆さんのやってることをやっていったらいいと思うし、脅威を感じました。こんな風な芝居を作る若い人たちが出てきたんだなと、嬉しかったです。

【小林七緒】いま前方に座っている4人(小林/シライ/弦巻/日澤)が、コンクール経験者なんです。「うーー」となりながら審査員の言葉を聞いてた体験がある人間なんです。新しいことを持ち込んだ時に、どうしようかなドキドキ、みたいな状態であることも分かった上で。

私もね、すごく面白かったんですよ。二次審査の時はランウェイじゃないんですよね?真ん中に舞台を挟んだのが、今回は当たりだと思いました。見辛いだろう、聞こえ辛いじゃないか、と思うかもしれない。実際聞こえ辛い時あるんですよ、裏側とかで。でもそのリスクを背負ってでも対面客席にしたことで、「細長いスペースコロニーを覗き込んでる」みたいなことを感じて、覗き見している気分をかなり楽しめました。

あとこれは褒め言葉ですが、無駄にお洒落ですよね。そのスタンドライトにする必要ある?とか、何故そのオシャレな透明な椅子なの?とか、ツッコミどころしかない。衣裳もお洒落だし。なのにやってることが「うんこ」とか。すごいツボだったんです。だからどんどん人が死んでもあんまり刺さってこないというか、「あ、死ぬよね」みたいな。それがまた衝撃的に面白くて。一次審査でも思ったんですけど、すごい大事そうなことを言ってるのに、大したこと言ってないぞ、と。なので、コントとして観たいと思ったのは確かです。

でも1時間経って芝居としてコロニーを覗き込んでると思ったからこそ、最後の最後に地球と交信するところで地球の存在を感じてしまった時に、ぽんと放り込んでくる割には「んん?」っていう。それの話はどうした?って終わってしまう感じがあって。それで二次審査の時にはもっと長かったものをぎゅうぎゅう詰めたから、最後こうなっちゃったのかな、と。そこが残念でした。

あと、人がどんどん死んでいってもあんまりドキドキしなかったのは、居る人の質感が同じだったので死んだ人が外から眺めていることの感触があんまりなくて。観客になってしまったなという気がして、ちょっと残念に思いました。

【弦巻啓太】僕は流山児さんが孫と同じ世代へ語っている姿を見て、あまりこういうところで泣いたりしないタイプなんですけど、ぐっときて、美しい光景だなと思いました。

非常に面白かったです。みなさんおっしゃっていたように、すごく美意識で貫かれていて、統一感もあるし。必ずしも達者というわけではない、出来ないこともあるだろうなという役者さんも、それもひとつの個性として全員で共有して受け入れていくっていうところもいいなと思いました。これは他の審査員からひょっとしたら僕は批判されるかもしれないけど、今回観た4団体の中で、僕が一番舞台上で「あー、何か今生まれたな」と思ったのは、平田さんの作品でした。今ちゃんと聞いてる、聞いたことで何か起きたんだな、ということを信じられたのがこの作品でした。

コントではなく、演劇を目指したというのは、どの辺ですか?

【平田純哉】「キャラクター」の捉え方が、人物として時間を背景に持っている断片なのか、あるいは記号として提示されるか、ということがコントと演劇の境目として考えています。

【弦巻啓太】いいと思います。

真ん中にランウェイがある挟み舞台になっていて、照明や役者の位置取りで視点を固定させない感じとか巧みなんですけど、「ベストなのかな?」とずーっと引っかかってて。後から二次審査の時の会場は違ったと聞いて、そういう理由もあるのかなと思ったんです。

あと、不条理ではなかったと思います。起きることとしてはベーシックに、スタイリッシュにくだらないことをやるというギャップで笑いをとっていく正攻法で。例えば、こんなにお洒落な人たちがやってなくも良いんじゃないだろうかとか、もちろんこの形でやりたかったんだろうけど、この形だからこそベタにやっては到達し得ない「ミスマッチ以上の何か」というのは何なんだろう?と。まだそこは僕には掴めなかったという感じです。

【日澤雄介】「何でこんなにスタイリッシュ?」というのは、多分だけど、それがやりたかったとしか言えないんじゃないかなと思います。それがこのMELTさんの色だと思うんですよ。僕は好き嫌い関係なく応援したいなと思うし、本当に映像のクオリティとか音とか明かりもレベル高いので、そこの美意識、自覚みたいなところを過信せずに持ってほしいなと思います。「ただかっこいいのやりたいよね」じゃなく、美学まで持ち上げてもらえるととても良いんじゃないかと思います。

中央に舞台を持ってきたのは、とても成功したように思います。一方で、お客さんの視点がいろんな所にあるということは、演出としてはある種効果的なミザンスであったり、明かりの入れ方がある。特に思ったのは、明かり。もう少し上手や下手にいったらおいしい位置がとれるんじゃないかな?ということが多く、そこの詰めは少し甘いのかな。(演出家が出演しているので)一度代役を立てて引いて観てみるとか、何か方法論を変えた方がいいのではないかと思いました。

多分、作家さんとお互いコミュニケーションが取れていると思ったんですけど、俳優さんとはどうなのか。俳優さんの掛け合いに対して平田さんがどこまでOK出してるのかな。そこは流山児さんがおっしゃった体温とか痛みとかをどこまで表現するかということかもしれないし、それらをもっと削ぎ落としていくのであれば、もう少しそっちにいかないといけないし、その塩梅が俳優任せというか。僕も演出やる時は個性を大切にするけれども、どうアンサンブル取ってくの?という、一歩引いた見方みたいなところは持っています。そういうところをひとつひとつブラッシュアップしていく作業は楽しいんじゃないかなと思います。

バカバカしいことをいかに真面目に、いかにリアリティをもってやれるかが多分肝だと思うんですよ。そのバランス感覚がすごくあるから、みんな笑ってる。ただ、やや笑いを取りにいく部分が観える瞬間があるので、そういうところをどう抑制していくかが平田さんの役目だと思いました。


深海哲哉(広島)

グンジョーブタイ『書込み訴え』

【弦巻啓太】登場人物からいろんな心の叫びが感じられました。男性の俳優さんが「他のみんな辞めていいけどお前は辞めないでくれ」と劇団の代表から言われ羨ましくて仕方なかった、と女性の俳優さんが言うところがすごく刺さって、思わず涙しました。

でもそこからが露悪的になりすぎているように思えました。どこまでが本当の話か分からないで観ているのですが、ある意味真に迫っているから、言ってることを全部信じちゃうというか、観客として気持ちの持っていき方が難しくなってしまったのが正直なところです。

いろんなパーツはすごく面白く、原爆ドームの作り方もなるほどなと思ったんですけれど、それ以上までは辿り着けなかったなと。それを通してどう感じて欲しかったのか、というところまでは掴めないという感じがしました。

あと、お話としては『駆け込み訴え』なので、「あの人はずるい」の「あの人」が、それぞれにとって誰のことなのか、フォーカスが絞れるといいなと思いました。

竹野さんの演技すごく好きだったんです、熱量が高くて。僕は普段そういうものを引いて観てしまうところがあるんですけれど、ああなる必然が信用できるっていう風に思いました。でもキリストに該当するものに対してどう甘やかされたのか、みたいな部分がもっと観えた方が、「私は裏切られて利用されたんだ」という点にスムーズに納得していけると思いました。熱量や伝えたいことも直球だったんですけど、原爆を親族が直接体験したという話が素材として並んでいるだけで、こちらに響いてこなかったなというのがあります。

【シライケイタ】質問なんですけど、今回のために亀尾さんに書き下ろしてもらったんですか?

【深海哲哉】はい。

【シライケイタ】なるほど。去年最優秀賞をとった八代さんの作品と今回の作品が、ものすごく似てたんです。

【大西一郎】去年八代さんが「演出者協会のコンクールの最優秀賞を取ろう、という稽古をしている」メタシアター的なものをやったので、それが構造的に被っているという。

【シライケイタ】もちろん描いてる内容は全然違うんですけれど、自分の中にある本物の生の叫びを引きずり出して観客席にぶつけるという意味では、ほとんど一緒だったんです。自分語りの構成にしようというのは、亀尾さんの本ですか?

【深海哲哉】今回、題材として『駆け込み訴え』がやりたいなとまず決めて、プランを自分なりに考えたんですけれど、僕は本が書けないので亀尾さんにお願いしたという経緯があります。自分の心情を吐露するというベースは、『駆け込み訴え』だと思っています。

【シライケイタ】最終的に全部舞台上に晒して「どうですか!」というところが、去年とほとんど同じに観えて。去年僕は感動しちゃってるもんで、シンプルに損してるなと思っちゃったんです。一回しか成功しない手法じゃないですか。つまり全ての作品でそれをやってくっていう劇団は多分あんまり上手くいかないというか。だから八代くんもあの手法はもう使えないよねって去年観て思ったし、一回に賭けたから客席へ伝わるものがあったんですけど。

語られてる内容は、どこまでご自身の物語とか俳優さんの生の心情が反映されているんですか?

【深海哲哉】多分質問されると思っていました。逆に失礼な言い方なのかもしれないのですが、「それは必要なことなのでしょうか?」とも思います。亀尾さんに僕ら3人の生まれてからこれまでを話したことは事実です。

【シライケイタ】「それが必要なのかどうか」と聞かれると、僕は必要だと思うんです。というのは、これが全部虚構だとすると、なぜこんなことをしたの?と思う。全部リアルだとすると、それもそれで、すごく苦しい。僕は観客席への距離の取り方、作品としての立ち上げ方が、上手くいってないんじゃないかなと思ったんです。これが全て虚構だとするなら、演出家のことを愛しちゃった俳優さんがいて、自分の言葉のように語らせてる演出家がそこに出てることも、どういう距離感なのだろう?という感じがしないでもないし。本当だとすると、それこそどう観ていいのか分からない。

あと、滑舌が悪いというダメ出しとか、「もう一回、もう一回」とただただ繰り返させる稽古場とか、それがどれだけ現実を揶揄しているのかとか、もしくはご自身たちがそういうやり方をされていたのか?とか。客席でどうやって観ていいか分からなくて。虚実ないまぜを客席に与えたかったという目的があるのだとしたら、それはとても上手くいったと思います。女の人の告白とか、演出家のデリカシーのなさとか。上手なだけに、怖かった。「それは必要ですか?」と逆に質問されたことが、深海さんの全てなんだと思うんですけど。

演劇で食えるのかとか、先を進んでる食えてる人たちがもっと世界を変えてくれよ、とか深海さんの叫びがあったじゃないですか。一緒に変えていきましょうよ。俺もやるけど、頑張りたいけど、一緒にやっていこうよ、という風にすごく思いました。

【鐘下辰男】演出家の方にとっての「あの人」は「演劇」という理解であっているのでしょうか?

【深海哲哉】「演劇」であり、「演劇を引っ張っている人たち」です。

【大西一郎】「先人たち」ということですよね。

【鐘下辰男】今回4 作品共に演出家の方が俳優として登場なさってて、それはよくないとかいう野暮はもちろん言わないのですが、深海さんのところは演出家は出ずに、違う俳優さんがやるべきだったんじゃないかなと、強く思いました。

まず太宰原作の『駆け込み訴え』が頭にあるから、どうしても作品内容が気になっちゃう。太宰の原作は「キリスト」のことを言ってるわけですが、やっぱり小説ですから生身の身体は実際には読者の前には現れない。でも演劇は生身の身体が実際に観客の前に存在しちゃうわけです。もちろん小説を舞台化する際はその良さももちろんあるんだけど、深海さんの場合、その弊害みたいなものばかりが目立ってしまった感がある。原作で糾弾されるキリストの場合は、読者はたとえキリスト教に詳しくなくても、読者なりにいい意味で色々想像できる自由があるんだけど、舞台の場合はそこに生身の身体が出てしまうから、ある種、良くも悪くも限定されてしまう。そうすると、この「演出家」がヒデー稽古してるな、なんてシーンがあった時、原本の「キリスト」と、今実際に観客の目の前に観えている「演出家」に乖離がありすぎるというか。

キリストに対するユダの愛憎っていうと、キリスト教に詳しくなくとも、「ああ、私の知ら

ないなんか深いものがあるんだろうな……」と思えるんだけど、この作品だと、そもそも

何故この女優さんは、こんなヒドい「演出家」にそんな愛憎なんて抱くの?と、そういうところばかりが気になっちゃう。

最後の方で、「演出家」が「演劇」に対する恨みつらみのシーンも、「キリスト」や「キリスト教」というものが有する様々なイメージに対して、ここで描かれる「あの人」は、すごく限定的で小さく観えてしまう。原本はキリストはこんなにヒデーやつなんだよっていうことを単に伝えたいんじゃないと思うんだけど。「いやー、演劇ってほんとヒデーよ」という憎ばかりが印象ついて、愛憎の「愛」が見えてこないと感じてしまいました。

【流山児祥】ビールケースをどんどん置いていって、扇風機を置いて、原爆ドームになりますよね?その時俳優が箱を動かすという「根拠」というか動機が、僕には理解できなかった。俳優があれを動かすモメントが読めなかったんです。

それに加えて最後のところは、先達が悪いからだとか言いだして。それなら芝居辞めちまえと思うんですよね。芝居をやる根拠が何かあったはずだよ。金にもならんことを僕は選んだ。少なくともあなたたちはそれを選んだ。それで何十年もやり続けるのは、面白いからだよ。そこの根拠が薄れていて、お互いにちゃんと「心の底から」喋ってないんじゃないの?としか読めないんです、観てると。コミュニケーション不全。

最初、劇行為をやる根拠を探すドラマだと思っていた。去年の八代くんと同じ方法を取ってるから何で同じような形で彼らに書いたの?ということを作家に聞きたかった。

演劇って何だ、役者って何だ、演出家って何だ、と問うのはいいんですよ。でも、上滑りしかしてない。僕、高校演劇の審査員やってムカついて一回で辞めたんだよ。結局あれは審査員に見せるだけの芝居なんだよ。観客が居ないんですよ。観客に向けてやろうよ。本来は、誰が1番とか2番とかそういうものじゃないんだよ。演劇は、いろんな人ができると思ってる。あなたたちちゃんとお互いに喋れば?って観ながら思った。お互いにコミュニケーションとって、やればいいじゃん。

内面もちゃんと表現にしてくれよ。俳優という生き物はもっと表現をしたいはずだ。他者に見られたい。晒されてる体を見せるわけだからさ、そこをどう感じてるの?人を非難する時は必ず傷つくじゃないですか。僕たちも今いろいろ言ってるけど、必ず自分の中で汗がギューっと出てくる。それが人間っていう生き物なんですよ。そこを観たい。

自分たちの歴史を感じるのが演劇なんです。出会って、今作って、それが残ってお客さんのものになる。自分たちの問題だったら自分たちで解決しようって。それで、「社会に向けて」ちゃんと話そうよ。まずは、お互い、足腰鍛えて舞台に立ちましょうよ。でも、この劇を観ていて劇を創る根拠=原点について考え直すいいきっかけになったことには感謝したい。

【鵜山仁】モノローグのところの露骨さがけっこう面白かったです、僕は。深海さんには失礼だけど、最後に演出者が喋って、それが一番自意識が鼻にかかってて、それも含めて面白かった。

問題だと思ったのは、今日はこんなことばかり言っていますが、「直前の一行が次の一行の世界を開示する」という感じ方・考え方があり。それは一行の「意味」ということじゃなく、一行の「表情」とか、一行の「空気感」とか「音」とかもっと身体性含めてのことなんだけど、それが次の一行を開示するという。分かりやすく言えば『駆け込み訴え』に変わっていくのはなぜかということを、理屈はいらないんだけど、表情とか空気感で知らしめてくれよという感じがあって。だから暗いところについつい目線がいっちゃう。照明のあたっていない俳優がどういうリアクションしているのかなとか。そこが一番の勘どころなんだと思って今まで芝居作ってきたから、そこが観たいんですよね。

これまで4人がいろんなことをおっしゃってたけど、それを積み重ねて行くとね、より高次なキリストにたどり着けるんじゃないかなと。それがお客さんのものにもなれるんじゃないかなと。キリストって字に書かれたキリストじゃなくて、自分たちにとっての憧れの対象とか、こうありたいとか、そこにノイズがいろいろ入ってくることによって共有されたもうひとつ広いところにいる存在。それは流山児さんが言ってた「お客さんのものになりたい」という感覚と近いんじゃないかと思うんです。

例えば最後のモノローグとか、僕は邪魔したいと思っちゃうわけ。明かりを消しちゃったり、自分で自分に茶々入れるということなのかもしれない。それをやることによって何が起きるかというと、共感の輪が広がる。独善的なものじゃなくなる。そこが面白いんじゃないかなと思って芝居を観たり作ったりしてるもんだから。コミュニケーションとかキャッチボールとか、より違う音に行き着くためのぶつかり合いとか、何でそういうことをやらないのかな。4本ともそうです。僕の場合はそこだけが面白くて何十年も演出やってるので。

【山口宏子】演劇人が仲間内で分かりあう「だよね、だよね」という世界は、観客にとってどんな意味があるでしょうか。火星での痴話喧嘩でも、飛行機で隣り合わせたふたりの不条理な会話でも、なんでもいいのですが、私は観せる側と観る側が一緒にどこか違う場所に行こうとする、そういうものを観たいと思っています。

これはテキスト批判になってしまいますが、演劇人の中でだけ流通する言葉で覆い尽くされた戯曲だと思いました。高校演劇の何々高校が地区落ちしたというのは、高校演劇に興味のある人には事件かもしれないけれど、この劇の中で、観客がそこからどんな意味を読み取ればいいのか分からない。自分たちが表現することを、もう一回違う視点から観て相対化してほしい。別に演劇についての演劇をやることや、私的な内容を語ることが良くないとは思わないのですが、それが、果たして表現になっているか?観客に何かを届けるものになるか?ということについては、もっと冷静に観た方がいいと思います。みなさん演劇をすごく愛している。その熱と表現が密着していて、すごく心を動かされる人もいると思いますが、そのストライクゾーンの外にいる人たちには関係のない話になってしまう。とても惜しいと思います。

俳優さんはとても素敵でした。3人とも個性があって。それなのに、お芝居も上手でセリフも綺麗に聞こえる、とても魅力的な女性に、ああいう告白をさせて、泣かせてしまうわけですよね。客席で観ていて、あまりに痛ましくて、「やめて!」っていう気持ちになってしまいました。この人にこういうことをさせなきゃいけないの?演劇のコンクールってそんなに偉いの?という感じがしちゃって。彼女の表現力なら、例えば、『桜の園』から抜粋したセリフを言っても感動させることが出来たと思うんです。それなのに、ここで、まるで意味なく裸にさせられているようなセリフを言っているように、私には観えたんです。もしかしたらあのセリフは真っ赤な嘘かもしれない。巧みな演技に騙されたのかもしれない。だとしたら、凄いですが、でも、客席に居た私には実話に思えました。

そういうやり方って、二回目は通用しないんですよね。それは表現じゃなくて、何か別のもの。素人が一発勝負で人生かけて何かを訴えるやり方としてはありだと思うのですが、プロの演劇人がそういう方向にいくのは、観客席で観ていて、いたたまれない気持ちになります。

劇中で、広島の高校生が、原爆劇をやることを期待され、結局自分たちは原爆劇をやるということでしか認められないのか?という葛藤を語る場面がありました。あそこ私はものすごく感動したんです。原爆ドームの影の見せ方も素晴らしかった。そうすることでしか認めてもらえないのかと悩む広島の表現者と、それを観る外の観客。その葛藤を掘り下げてきちんと観せてもらえないものだろうか、と考えながら観ていました。

俳優さんたちの真摯な気持ち、表現する力と声と身体は、とても素敵だと思いました。ただ今回のテキストの選び方、作り方は、それを生かせなかった。とても良い素材があるのに、違う料理を作ってしまったようで、それを悲しく思いました。

【加藤ちか】私は広島で、作品の完成度、スタッフワーク、練り込み方、それから作品構築を目の当たりにしました。今回作品の作り方でいろいろ言われていることの、脚本の中の吐露の部分から、広島を背負ってきている現実の事実のリンクを考えると、あの生々しさや手法をとっているということは、手に取るように分かりました。

『駆け込み訴え』のことやテーマ性のことを皆さんおっしゃられるけど、根本的には地方にいる現状やら現実のことがテーマだったんじゃないかと思えました。作品は、ダイレクトな手法として、広島で私が観させていただいたもののような作り込みが出来ていたかというと、足元にも及ばなかったと思います。

ただ、決して言葉が客席へ届かなかったわけじゃなくて、本当の広島のこと、本当の演劇のこと、本当の事実を吐露したことで伝えるんだったら「もっと(残す言葉は必要)だよね」って。

今回、消えない文字と消える文字を考えました?消せないこととか。2回公演があるので違いはあったんだろうか?と、私はとても気になり伺ったら、1回目の公演よりも次の2回目の時の方が残ってる文字が多かったということがありました。

私が観せていただいたもののスタッフワークや総合力・あなたの実力からしたら、うしろの紙の使い方ひとつとっても、nセットや道具の使い方にしても、もっとアーティスティックにできたし、アジテーションにもできたと思います。

【小林七緒】それぞれ想いとかしんどいことがありながら、それでもぶん投げられないで演劇をやってる3人が出てくるじゃないですか。なんでそんなに演劇に取り憑かれちまったんだろうというところが、今回の演出のやり方だとちょっと見え辛いというか、「演劇を愛せるのかい?」というところが、客席に伝わってこなかったんです。俳優さんがいろんな想いを背負いながらやっぱり演劇に戻ってきて、もう一回一緒にやろうとする。そう思わせるようなことを、この集団は作ってるのかしら?どうしても離れられなくて、就職もできなくて、結婚もえらいことになってるのに、それでもこの集団と一緒にやりたいみたいな熱意に、納得させるものがなかったんです。

なんであんな露悪的に、演出家をただただ嫌な奴にしてるんだろう?ということが引っかかって。原作にある「あの人は美しい」というところが観えてこなかったのが、一番私は残念に思ったところです。最後に3人が自分の中の葛藤みたいな部分を書いていきますよね。お金のこと、広島、原爆、結婚、いろんなことを書いて、それが消えてというのが、全部乖離して観えちゃうのが勿体無くて。

「全部演劇である」と叫んだもののベースが観えなかったので、なんでトルソーの紐を燃やしたのかが分からなかったんですよ。トルソー丸ごと燃えたり、あの書き込んだ紙がトルソーにも巻いてあってそれが燃えたのなら分かるんだけど。観せようとしている手法が真逆にいったんじゃないかな、という感想になりました。稽古場に見立てているビールケースも、最初わくわくしたんです。どうやって使ってくれるんだろう?と。例えば暴力的に「もう一回」とか言ってる演出家が蹴散らかしてって、それが原爆ドームになるんだったら良いなと思うんだけど、ただ積んであったから何だったんだろうな?っていう。いいアイデアがあるのに、全部乖離していってる感じがもったいないと思いました。

あと、他の人のモノローグが、舞台上の同じ空気の中にいる人間には刺さってるはずなのに、それが見えないっていうことのストレスが大きくて。この3人の関係が変わってく、もしくは歪んでいく、強固になっていくっていうのが積み上がっていかない感覚があって。熱弁してるんだけど、全然舞台と客席の境目を越えてこないぞという感触になってしまいました。

【深海哲哉】上手なり両サイドに居る2人は、客席の写し鏡だと思っています。

今回、客席との境目を無くしたかったんです。観客自体にも当事者性というのを持たせたくて。そんな中で、あえて、上手にはけた俳優を浮かび上がらせたくはなかったんです。観客が自分自身を見ている、観客自体を表したかったということです。

【日澤雄介】傍観者にさせたかったという理解であってますか?モノローグをしてる人から何かの影響を受けて、ここで何かしらが動いているということで大丈夫でしょうか?

お客さんが舞台で見るというのを写し鏡として置くのであれば、そういうことにはならないと思うんですよ。

舞台上で自分じゃない人が何かを吐露しているというのを見ると、少なからず影響は受けるじゃないですか。お客さんは、その受け方がやっぱり当事者性はあんまり出づらいと思うんですよ。例えば俳優でもなければ演出家でもないお客さんが観るとすると、「こういう悩みがあるんだ」「こういうことに葛藤するんだ」という気づきはあると思うんですけども。同じ現場にいる、同じ劇団にいる人が、「この人ってこんなことを葛藤してるんだ」ということの受け取り方って、ちょっと違うじゃないですか。

これは、どっちが狙っていたところですか?

【深海哲哉】上手にはけている時には、基本的には「当人」ではありません。女性が演出家のことを吐露している時は、それを聞いている演出家は、自分のことを言われていると思っていないんです。

【日澤雄介】これをなぜ聞いたかというと、ベースの『駆け込み訴え』があって、モノローグを繋いでいく男性の俳優さんがいて、女性の俳優さんがいて、深海さんがいて、という。これがどう繋がるのかという大枠を観たかったんです。それが積み上がっていって最後どういうエンディングにいくのかなって。

各々が各々の方向性で自分の葛藤なりを言っていくところで、その流れを切っていくと、お客さんはそれが「結局何なのか」というところに行き着き辛いと思います。そうなると、すごく感情的でネガティブなものをモロにくらってしまうんです。山口さんがおっしゃった「裸」とは多分そういうことだと思います。「裸になる」ことが、次の人、その次の人に対して影響を与え、文字を書く、そして最後に燃やすというエンディングに行き着くことができたのであれば、感情的に自分の中を曝け出す行為のもう一歩先のところにいけたんじゃないかな。

それを狙っていないとするなら、いったいこの作品は何を狙ったのかな。大きく、各々が個人で持っている鬱憤、ネガティブなものっていうのをガンっと吐き出すだけだとすると、ちょっとキャッチし辛いというか。じゃあそれをお客さんはどう消化すればいいんだろうか?と僕は思ってしまいました。

独白に「えー」とか、言い直しとか、言葉の詰まりが結構あったので。稽古不足なのか、覚えてないのか。それとも、そういうフリがついてるのか。それとも自分で本当に言葉を探してその場から出てきているのか。この瞬間はいいなというところもあれば、何か整えているような瞬間、テキストが見えてくる瞬間もあったりとか、逆に生っぽさを作るために敢えてお芝居として、テクニックとして言い淀むなりリズムを作るなり、いろんなのがあったので、それをどう演出されたのかなというのは、少し気になるところがありました。

あと、男性の俳優さんが「本当に僕でいいんですか」と言うところで、他の二人がビールケースに座ってるミザンスはすごく好きです。何も言わずにある種のヒエラルキーがきているような。ただ座ってるだけなんですけど、何かちょっと嫌な空気が持ち上がってくるあの感覚は、ちょっとワクワクしました。


審査結果

議論のあと、各審査員が全候補者の順位に従って4点~1点の4段階評価で採点を行い、投票。
開票の結果は次のとおりとなった。

文責 広報部担当理事 EMMA

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